九谷焼は1650年代に大聖寺藩の九谷村で良質の陶石が発見されたのをきっかけに、藩士の後藤才次郎を有田へ派遣し、技術習得後に加賀市九谷で始められたが、約50年後に廃窯となった。
古九谷と呼ばれる磁器は濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、祥瑞手、五彩手、青手などに分類される。こうした古九谷は1960年大にかけて実際は九谷ではなく有田で焼かれたものと言われている。
古九谷の廃釜から約1世紀後の1807年に加賀藩が京都から青木木米を招き春日山窯を開いたのをきっかけに、数々の窯が加賀地方一帯に建った。再興九谷と呼ばれる。
九谷庄三は中興の祖と呼ばれ、能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を取り入れ、彩色金襴手を確率し、庄三風と呼ばれる画風は輸出される九谷焼の主流となった。
作風としては 飯田屋風 宮本屋窯の飯田八郎右衛門が焼いた赤絵のものを 赤九谷ともいう。
古九谷風 赤、樹、青(緑)、群青、紫の5色を使った重厚な五彩色の構図が特徴。
木米風 赤地の上に中国風の人物画が描かれる。
吉田屋風 古九谷風で使われる5色のうち赤色を使わない。青九谷とも言う。
九谷焼の人間国宝としては、
- 三代徳田八十吉
- 吉田美統
が挙げられる。