桃山時代から茶の湯の流行とともに、京都市内でも楽焼や様々な茶道具、器が作られるようになり、江戸時代には清水焼以外にも、粟田口焼や八坂焼、音羽焼などが京都市内に点在していたが、その後淘汰され清水焼だけが残り、現在では京焼=清水焼となっている。
京焼を語る上で欠かせないのは、野々村仁清と尾形乾山の二人。京焼随一の名工と評される野々村仁清は色絵技術の素晴らしさから、国宝 重要文化財に指定されている京焼の多くが、仁清の色絵磁器で占められていることや、当時においても徳川将軍家に献上されていた事からも、過去から現在にかけて高い評価を受けていたことが伺える。尾形乾山は尾形光琳の実弟で、それまで京焼になかった大胆な絵付けや文字を添える斬新な方法が人気を博した。
仁清、乾山を第1時黄金時代とすれば、第2次は初代清水六兵衛、初代高橋道八、奥田潁川が挙げられる。奥田潁川は京焼で本格的な磁器生産を初めて成功させ、その門下には青木木米、二代高橋道八がいる。
幕末から明治にかけ、東京遷都と大きな社会変化に伴い、茶陶の需要が激減し京焼は衰退していった。その中でも京焼の作家たちは生き残りを掛けて、京薩摩と呼ばれる豪華絢爛な金襴手の色絵時期を制作したり、欧米への輸出を増大させ現在の地位を占めるに至った。